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    暴力団は「暴力あるいは暴力的脅迫によって自己の私的な目的を達しようとする反社会的集団」日本を活動の中心地とし、その構成員は主に「組員、構成員、暴力団員」などと称され、
    映画などの影響などで日本国外においても「YAKUZA」ヤクザとして知られている。右翼団体・似非右翼や企業舎弟などを傘下に組織することもある。


    鳴海清

    鳴海 清 (1952年 - 1978年)二代目松田組系大日本正義団組員
    山口組組長田岡一雄を銃撃したことで知られる。

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    中学校卒業後、東大阪市内の印刷工場に勤務するが2年で退職。17歳の時に西成区内の喫茶店で客と口論の末喧嘩となり相手が死亡、補導され浪速少年院で1年半を過ごす。少年院を出所後の19歳ごろに大日本正義団組員になったと思われる。

    [大阪戦争とベラミ事件]
    そもそものきっかけは75年7月26日、大阪府豊中市で、山口組系佐々木組内「徳元組」の組員が、松田組系「溝口組」の賭場で嫌がらせを続けたため、溝口組員が徳元組員3人を射殺、1人に重傷を負わせたことだった。
    1975年から続いていた「大阪戦争」と呼ばれる三代目山口組佐々木組と二代目松田組の抗争で鳴海の所属していた松田組 村田組 大日本正義団の組長・吉田芳弘が1976年10月、大阪日本橋の路上で佐々木組組員に射殺された(日本橋事件)。鳴海はこの吉田会長を尊敬していたという。彼は山口組に報復を決意、狙うのはトップ・田岡組長だった。これへの報復として、鳴海は山口組組長・田岡の狙撃を計画。京都市の京阪三条駅前のクラブ「ベラミ」が田岡の行きつけだとの情報を入手し数ヵ月前から同店に通い詰めて彼の来店を待ち伏せた。

    1978年7月11日、映画『日本の首領 完結篇』を製作していた太秦の東映撮影所を訪れた田岡が、その帰り道に傘下組長や映画関係者を引き連れて同店を訪れた。ダンスショーが終わった瞬間を捉えて銃撃、38口径の銃弾は田岡の首筋を薄く貫き、他に2名を負傷させた。犯行後、阪急で大阪方面に逃走。2日後には鳴海の犯行と判明したが、山口組を挑発するような文章を新聞社に送り付けるなどしながらも逃走を続けた。

    鳴海は田岡組長を狙撃する前、妻と愛人を並べて自身の計画を打ち明けていた。そして自分に万が一のことがあれば助け合って生きていくようにと伝えた。家族の安全のために妻子を愛人の住んでいたアパートに移していた。「ベラミ」から逃走した後は、大日本正義団二代目会長と愛人に連れられ、同じ松田組系の「忠成会」に匿ってもらっていたという。
    10月8日、「忠成会」幹事長ら3人が鳴海殺しを自供。その動機は「山口組の激しい報復に、持て余す存在となった」というものだった。ところが3人の供述には微妙な食い違いがあった。

    姿をくらませていた鳴海は、大阪の夕刊紙に挑戦状を送りつけていた。
    「田岡まだお前は己の非に気づかないのか・・・・・もうすこし頭のすづしい男だと思っていた。でも見そこなった様だ」
    「日本一ならば真の親分ならば恥を知る者だ。それを知らぬかぎりしょせん、くすぼりの成り上りでしかない」
    「このまま己の力を過信すれば、その過信がお前のすべてのものをほろぼす事になる。それは天罰だ。必ず思い知らされる時が来るぞ」
    こうした挑発を受けて、当然のことながら山口組による報復が始まった。松田組系の7人が銭湯・路上・タクシー車内などで射殺されている。

    ◆8月17日 松田組系「村田組」・幹部 死亡
    ◆9月2日 松田組系「西口組」・組員2人 ともに死亡
    ◆9月18日 「大日本正義団」・幹部 負傷
    ◆9月24日 松田組系福田組内「杉田組」・組長 死亡
    ◆10月5日 松田組系「村田組」・幹部 負傷
    ◆10月8日 松田組系瀬田組内「石井組」・組員 死亡
    ◆10月24日 「大日本正義団」・幹部 死亡

    9月17日、六甲山中の瑞宝寺谷で腐乱死体が発見された。
    死体はガムテープでぐるぐる巻きにされ連日の暑さで腐乱し、ウジがわいていた。顔は白骨化し指先は崩れて指紋採取は不可能だった。加えて前歯四本が折られ手指の爪は右手の三本を残して抜かれ右足の爪もはがされていた。少年院時代に真珠二個を埋めたという性器は無事だった。赤外線等による科学捜査で背中の天女の刺青が浮かび上がり、10日後に漸く鳴海本人と断定された。その他、お守りに入っていた子供の写真や吉田会長の遺灰等からも鳴海ではないのかとも言われていたが兵庫県警は鳴海の死体だとは思っていなかったため大変驚いたという。


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    11月1日、山口組は記者会見をして「大阪戦争」の抗争終結宣言を発表。
    松田組は資金難から5年後に解散した。


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    鳴海は最後に松田組の友好団体・忠成会に匿まわれていたが山口組の激しい報復に持て余す存在となったため組員に殺害されたとされる。しかし逮捕された組員らは裁判で殺人については無罪が確定し、真犯人不明のまま公訴時効を迎えた。

    この事件後、田岡はママら「ベラミ」の社員を料亭へ呼び、迷惑を掛けたと謝罪した上で「自分を含めて暴力団関係者は今後一切ベラミには入らない」と約束した。「ベラミ」はその後も営業を続けて繁盛したが、経営の中心だったママの死により閉店したという。

    [逸話]
    この事件の鳴海をモデルとして、東映が1979年に中島貞夫を監督に据えて『総長の首』という映画化された。ただし、そのまま映画化すると山口組を刺激して危険だというので大正期の物語にされるなど設定が変更されている。また、同じく1991年公開の『獅子王たちの夏』1993年公開の『獅子王たちの最后』も設定変更をして映画化された。さらに、1996年には山田勝啓が『ドンを撃った男』として小説化し1999年に的場浩司主演で和泉聖治監督により映画化された。

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    鳴海が交際していた当時16歳の愛人の少女は、鳴海の死後に三菱銀行人質事件を起こして射殺された梅川昭美の愛人となった。梅川をモデルにした1982年の映画『TATTOO<刺青>あり』には劇中に鳴海をモデルにした男も登場している。

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    『TATTOO<刺青>あり』をプロデュースした井筒和幸が監督した1979年のピンク映画『暴行魔真珠責め』は鳴海清をモチーフとしておりタイトルには鳴海への献辞も入れられている。脚本も『TATTOO<刺青>あり』と同じ西岡琢也である。なお井筒は1978年のピンク映画『熱くて深い交わり 肉色の海』で暴力団組長の娘が知人という縁でその組長から撮影に使う外車を貸してもらったが、その組長は鳴海が狙撃した田岡一雄であった。


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